天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊
饒速日尊系のも移動しましました。神社仏閣カテゴリーで残しているものもありますが。
2017.10.4 石上神宮 奈良
「先日は岡山の石上布都魂神社 をご紹介したので、今日は奈良の石上神宮を。
2010年と2016年の2回参拝しました。
HPによると、
古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていた
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) 国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊(ふつのみたま)」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神
留御布魂大神(ふるのみたまのおおかみ) 天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神
布都斯魂大神(ふつしのみたまのおおかみ)記紀神話の、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国で八岐大蛇を退治されるのに用いられた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿られる御霊威を称えて布都斯魂大神
配祀神(はいししん)
宇摩志麻治命 (うましまじのみこと) 饒速日命(にぎはやひのみこと)の御子で、当神宮祭主(さいしゅ)物部氏(もののべし)の祖神
石上神宮で特に印象に残っているのが、摂社 出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)です。
「延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています」HPより
オーブが
2010年
因みに、
フツシ=布都斯魂=スサノオ
フル=布留御魂=ニギハヤヒ(大歳)
と、「古代日本正史」にあります。
ニギハヤヒ(大歳さま=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくに てるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)様は古事記から抹殺されているし、日本書紀にも殆ど出ていないとか。記紀だけではわからないことだらけでしょうね。先代旧事本紀、ホツマツタエや、明治に日本中から出させて焚書したという古文書(残っていれば)や、神代文字で「十種神宝」の事が書いてあるというあの神社の神典…研究がすすめば興味深い事が出てくるのかもしれませんね。
参考館
石上神宮のふるべのお守り
「一二三四五六七八九十 ふるべゆらゆら」
2017.11.22
「鎮魂祭。神武天皇即位の辛酉の年(西暦241年)の、11月1日(現在では11月22日にあたる)に鎮魂祭が執り行われ、現在まで石上神宮や宮中で執り行われる重要な特殊な祭祀だそうです。
11月22日はニギハヤヒ様の命日とも言われています。
実は数日前から、ニギハヤヒ様の事を書こう書こうと思っていてたのですが、今日になってしまいました。
というのも、浜離宮恩賜庭園に、ニギハヤヒ様の皇子で物部氏の祖といわれている可美真手命(ウマシマデのミコト)の銅像が建っていることを知ったからです。「布都御魂(フツノミタマ)剣」を携えた像が。
説明文には
「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の皇子で、神武天皇の東方遠征に従い、 手柄をたてたと言われる軍神の銅像です。 明治27年(1894)明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行なった懸賞募集に当選した作品であります。台座には、佐野昭政策、鈴木長古鋳と記されています。」と。
大和の大王だったとされるニギハヤヒ様は記紀には殆ど出て来ないですし、抹消されたと言われています。
先代旧事本紀には、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)とあります。
ニギハヤヒ様はスサノオ様の5男(又は3男)といわれていまして、その皇子「ウマシマデのミコト」は、他ではだいたい「ウマシマジのミコト」と出てきます。
ん~。。。何をどうやってどこまで書こうか、悩みつつ、筆が進まない。。。
物部神社(島根県大田市)には神武天皇即位の詳細が伝えられているとか?石上神宮(奈良県天理市)、大和神社、大神神社(奈良県桜井市)など、ニギハヤヒ様にゆかりの神社や、江戸時代の儒学者の林羅山が偽書と認定し焚書された「旧事本紀」(先代旧事本紀)、ホツマツタエ、十種神宝、継体天皇、白河天皇、江戸か明治の頃、全国の旧家や神社から提出させ焚書されたという古文書系なども興味深いですよ。
かなり大量に読みましたし、研究されている方の話も聞いたので、いつどこで何から知ったか、よく覚えていないことが多いのですが、印象的なのは、
☆神武天皇即位にあたっての取り決め
・天皇は日向系から、皇后は出雲系の神裔から立てる という取り決めが、初代から数代までは守られていたが、それ以降は反故にされた。その後は日向系同士の争いが激しく決まらなかったので、どちらの勢力にも属さない出雲系を立てることで丸く収まり、継体天皇が即位され、しばらくはうまくいっていたけど、また日向系に戻った
といいう説を聞いた事があります。なんとなく、そうだろうなぁと思いました。
それと、スサノオ様が半島から来られた という説もありますが、半島は無人の時があり、日本人(倭人)が行って、国を作っていたそうですね。前方後円墳もありますし。その後、大陸から 者がやってきて倭人がいなくなったとか?
なんだかゴチャゴチャになってしまいましたが、いわゆる「歴史」と違う説もあるのが興味深いですね。」
2017.11.26 「先代舊事本紀」
数年ぶりに大野七三氏の「先代旧事本紀」をめくりました。まえがき は昭和64年新春とありますが、2000年に復刊されています。
「先代舊事本紀(先代旧事本紀)(せんだいくじほんぎ)」は、平安初期に撰されたと考えられています。江戸時代初期までは、記紀同様に重要に取り扱われていた第一級の古代文献だったそうです。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいわれます。
古代創立された神社の歴史、祭祀の制度及び祭祀遺跡・遺物などからして、先代旧事本紀に記されていることを無視できそうにありませんけどね。たぶん。
まえがき を少しまとめてみますと
・藤原不比等 藤原(中臣)氏は新興豪族
・藤原(中臣)氏が台頭する七世紀中頃までの大和朝廷は天照大神・太陽神として信仰されていた饒速日尊(ニギハヤヒのミコト)を祀った大神神社(おおみわじんじゃ)、石上神宮(いそのかみじんぐう)大和神社(おおやまとじんじゃ)を大和の三大神社として最も尊崇されていて、天皇が伊勢神宮に御親拝されたことはなかった
・旧来豪族達によって奉齋されていたのも皇祖神 饒速日尊
・藤原不比等が中臣氏に神武天皇の祖母にあたる大日霎貴尊(オオヒルメムチノミコト)を高天原(たかあまはら)の最高神天照大御神とする中臣浸透を興させ、朝廷の信仰も変えさせていった
・持統天皇6年(692年)2月突然三月三日に、持統天皇がはじめて伊勢神宮に御幸される詔が出された。この時、大神神社の神主家三輪朝臣高市麻呂が朝廷の信仰が変遷されることを恐れ、自らの冠位までなげうってお止めしたが、三日後の三月六日に実施されてしまった。
まとめると
藤原氏の台頭→中臣神道興隆→持統天皇伊勢神宮参拝→朝廷が中臣神道による祭祀→中臣神道完成→藤原氏による記紀の神代巻が編纂されはじめた
と、こういう感じでしょうか?
先日も書きましたが、
その後、白河天皇が鎮魂祭を復活させた に繋がるのでしょうかね。現在まで宮中でも鎮魂祭が執り行われているそうですし。
☆神武天皇の皇后は饒速日尊(ニギハヤヒ様)の皇女 イスケヨリヒメ(亦の名を、ひめたたらいすずひめのみこ) だそうです。
「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)
一般的に「神武天皇はオオモノヌシの娘を后にした」といわれますが、
オオモノヌシは、
倭大物主櫛甕魂命、倭大物主櫛瓺玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)といわれ、ニギハヤヒ様のことのようです。
いろいろな書物や古い神社の由来、遺跡や遺物などを総合的に鑑みるのもいいかもです。
そういえば、2014年11月17日に天皇皇后両陛下は日本最古の神社(のひとつ)大神神社に訪問されていますね。
では。
2017.12.1 「ホツマツタヱ 「秀真伝(ほつまつたゑ)」
十数年ぶりに鳥居礼氏の「言霊 ホツマ」を開きました。ホツマツタヱの研究書で、「ホツマツタヱ」「ミカサフミ」「フトマニ」から古代日本の言霊観、古代日本の文明を探りだそうという本です。
編纂したのは大直根子命(おおたたねこのみこと)です。
奈良県桜井市三輪にある大神神社(おおみやじんじゃ)の摂社 大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)=若宮社 の御祭神ですね。
御祭神の大直禰子命(オオタタネコ)は大物主大神(オオモノヌシ)のご子孫。大田田根子命。意富多々泥古命。
由緒書には
「第10代崇神天皇の御代に疫病が大流行し、国難が起こった時、天皇の御夢に現れた大物主大神の神託によって、茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら、現在の堺市)に大直禰子命を見出され、大神を祀る神主にされると疫病は治まり国が平和に栄えたとされます。
また、御祭神が大物主大神の ご子孫であることから若宮社とも呼ばれ、春の大神祭では若宮の御分霊が神輿に遷され、三輪の町を巡幸されます。」
春の大祭の後、午後から御巡幸です
写真の順番は逆ですけど。
大神神社に参拝される時は、拝殿、境内摂社末社や、狭井神社、久延彦神社 (くえひこじんじゃ).、そして大直禰子神社 にも是非参拝されるといいですよ。
久しぶりに「言霊ーホツマ」を手にしたら、大田田根子命の御名が! 大神神社にやっと参拝できたのは2011年ですので、十数年前に読んだ時にはピンと来ていなかったです。
おまけ
かつて大神神社の神宮寺の一つだった、平等寺さんの十一面観音さまは、明治の廃仏毀釈で破壊を逃れる為に聖林寺さんに安置されることになりました。平等寺さんは大変ご苦労なされて昭和に再興されたようです。その時に十一面観音さまも復元されました。