ひふみ神示 下つ巻 第二十四、二十五、二十六帖

ひふみ神示より

 

【 第二十四帖

 一が十にと申してありたが、一が百に、一が千に、一が万になるときいよいよ近づいたぞ。秋立ちたらスクリと厳しきことになるから、神の申すこと一分一厘ちがはんぞ。

改心と申すのは、何もかも神にお返しすることぞ、臣民のものといふもの何一つあるまいがな、草の葉一枚でも神のものぞ。

   七月の三十日、ひつくのか三。

 

  第二十五帖

 今度の戦で何もかも埒ついて仕まふ様に思うてゐるが、それが大きな取違ひぞ、なかなかそんなチョロッコイことではないぞ、今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。

今に戦も出来ない、動くこともひくことも、進むことも何うすることも出来んことになりて、臣民は神がこの世にないものといふ様になるぞ、それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。

 戦出来る間はまだ神の申すこときかんぞ、戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ、神の申すこと、ちっとも違はんぞ、間違ひのことなら、こんなにくどうは申さんぞ。神は気(ケ)もない時から知らしてあるから、いつ岩戸が開けるかと云ふことも、この神示(フデ)よく読めば分かる様にしてあるのぞ、改心が第一ぞ。

  七月の三十日、ひつくのか三のふで。

 

  第二十六帖

 神の国を真ん中にして世界分けると申してあるが、神祀るのを同じやり方ぞ。

天のひつくの家とは天のひつくの臣民の家ぞ。

天のひつくと申すのは天の益人のことぞ、江戸の富士と申すのは、ひつくの家の中に富士の形作りて、その上に宮を作りてもよいのぞ、仮でよいのぞ。

こんな事訳(コトワケ)てはこの後は申さんぞ。小さい事はサニワで家来の神神様から白洲のであるから、その事忘れるなよ。仏(ブツ)も耶蘇(ヤソ)も、世界中まるめるのぞ。喧嘩して大き声する所にはこの方鎮まらんぞ、この事忘れるなよ。

     七月の三十一日、一二(〇の中にゝ)。    】