ゲルマニウム

 とても興味深いゲルマニウムについて、かいつまんで書いてみようと思いますが、興味のある方は、ぜひ浅井一彦先生の「驚異の元素 ゲルマニウムと私 」等をお読みいただければと思います。

著書からかいつまんで抜粋すると、

ゲルマニウムは生体内で酸素をものすごく豊富にしてくれる

・万病の原因は酸素欠乏に起因する

有機ゲルマニウム化合物は、身体内の酸素を豊富にし、有害汚染物質を体外に追い出すか分解して無毒化してくれる

 

有機ゲルマニウム化合物がいかに生まれたかは、浅井一彦先生の人生を知っていた方がいいと思います。

東京帝国大学昭和7年に卒業 高等文官試験で外交官試験に合格するが、外務省の係官が官報の合格者名簿に浅井氏の名前を載せないというミスのせいで外交官任命されなかったが、パスポートは外交官として発行されたディプロマの印字のあるパスポートだった!

・大倉組に入社し、商事部からドイツ駐在員としてベルリンに派遣される(昭和9年

 ・ベルリンで強度の神経衰弱になるが、ドイツ青年に連れられて行った炭鉱採掘現場の「人間が自然と一体になってうごめいている」という光景を格別なものと感じ、ベルリンに帰り、今までの生活を変え、石炭についての勉強に専念する

  (それから十数年後に、石炭中から原子番号32のゲルマニウムを抽出して、世界中から喝采を浴びる)

・ベルリンの工科大学を狙うが、旧制国立高等学校では文科、大学では法科だったため、入学資格はないと悲観していたが、当時は日独で文化協定が結ばれており、そこには文科系理系の区別がなかったので許可され、工科大学に入学。鉱山治金を専攻。

・3年で15単位をとり一年の実習をすませ、あとは最後の仕上げの段階に入ったところで、ヒトラー総統がソ連侵攻を開始したので、ドイツ人の妻と子供達を疎開させ、一人でベルリンで仕上げに専念。(当時のベルリン生活は食糧不足と空襲による死の恐怖)

英米軍の焼夷弾投下される中、火事にならないよう屋根の上で消火し路上に落下し、大腿骨骨折で気絶しドイツ陸軍病院に運ばれる。

この屋上での勇敢な働きぶりをつぶさに見ていた老将軍の報告が元でヒトラー総統からドイツ軍人にのみ与えられドイツ軍人としての最高の勲章(日本の金鵄金賞に相当)を与えられる。

 

 当時のソ連駐在大使 佐藤尚武氏(戦後、第一回参議院議長 国際連合協会長)が月刊国連(昭和37年8月号)等に書かれた「ベルリン陥落後、モスコーの日本大使館での変わったできごと」にも浅井氏のことが書かれています

・東大出の法学士、戦前日産系の会社に入社し、播磨重工業の総裁、副総裁に見込まれ、石炭研究の為にドイツに派遣され、ベルリンの工科大学では石炭関係の有名な博士について石炭の表面を顕微鏡で研究する。(当時の日本では未知の研究方法)

・ベルリン陥落、ソ連軍によって収容されるのを逃れて家族のいる南ドイツを目指すも、途中でソ連軍に捕らえられゲーペーウーに連行される

 ウクライナで活躍したスパイと証言され、ドレスデン郊外の死刑囚を入れる有名な監獄の独房に入れられるが、ドイツ語のわかるソ連人にやっと外交官パスポートを見せることができて、釈放される

佐藤大使から「あの地下室から出て来た人は、君をもって最初とし最後であろう」と言われる

・妻子の生死を確かめるためにドイツに戻りたいと言うが、

「貴重な研究を身につけたひとだから早く日本に帰って国の為に働いてもらわねばならぬ」と大使…、翌日「…大使の名において一私事に関して、他国の元首にお願いの電報を打ったのはこれが初めてです。スイス、スウェーデンノルウェーデンマークの元首宛に浅井家族救出保護の依頼をしました」

深々と頭を下げ、「日本に帰り日本の為に死力を尽くします」と誓い顔を上げると、大使は泣いていた

・モスクワをあとにした直後にソ連参戦により佐藤大使ご自身も抑留される。そして終戦

・昭和20年7月26日、グラマン機2機に追いかけられ、九死に一生をえて、命からがら羽田に着いた。東京中が焼け野原。

 不可解だが「何かやってみせるぞ」という気概がからだに満ち溢れていた

昭和18年ハンブルグの占い師のジプシーの男性に「日本はどうなるのか?日本の勝敗はいかに?」と占ったもらうと

 「アメリカもソ連も今度どんどん力を増して他国を寄せ付けない強大国になるが、日本も途方もない繁栄した国になり、未来は太陽の昇るがごとく、世界に冠たるたる地位つき世界人類に貢献するだろう」と言われていた

 

・ドイツに残した妻子は、国際赤十字を通じ東ドイツの田舎に生存していることがわかり、ドイツに赴いて救出しようと決心。占領軍から出国許可をとろうとマッカーサー元帥を訪ねるが会えず、腹心の少佐に会うことができ、三日後には出国査証を発行するよう外務省に指示が出る。

・出航をまちながら3か月たった時にスイス赤十字から長文の電報

 妻子は無事スイスで救出され日本に向かった。

そして、再会。

 終戦の直前、モスクワの大使館で大使が大使の名で、スイスその他の中立国に救出を打電して暮れていたのが実った

 

ゲルマニウムの研究は、

・大化学会社の研究所に一室を使わせてもらって、私財を投じて東大生7人と研究し、日本の石炭の中にゲルマニウムを発見

・立ち退きを迫られ、佐藤元大使に窮状を訴えると東京電力の菅禮之助氏を訪れ相談

 菅禮之助氏の太っ腹で3年後には立派な研究所を作ってもらった

 

ここまでが「第一章 私とゲルマニウム

 

 浅井氏の人生はスゴイです。こんなメモじゃ伝わらない。著書でちゃんと読んでいただきたいです。