岡本天明伝
岡本天明氏関係も移動しました。
「近・現代史に興味ある方は、一読されるといいかもです。
時代背景、関わった人物、天明の元を訪ねた人物等、著名人の名前がさらりと出てきます。想像を超えていました。読んで良かったです。
いろいろな方面で大変興味深いことが、ほんとにさらりと一瞬出てきます。
合気道関係でいえば、植芝道場に柳原白蓮が出入りしていたそうです。
神社も色々出てきます。奈良の大神神社内の狭井神社のご神水のこともサラリと。
狭井神社といえば、私もご縁がありまして…
2011年3月13日に大阪に行く予定でしたが、東日本大震災発生の為、その用事が中止になりました。しcかし、ホテルも列車も予約済みでしたので、ずっと行きたかった奈良の三輪山の大神神社に行くことにしました。するとその日は、「12年に一度の 卯の年 卯の月 卯の日」の「三卯大祭」でした。なぜか、拝殿に上がって参列させていただきました。ご縁を感じて、それから毎年1~2回参拝するようになりました。
大神神社の境内摂社・狭井神社の神水の井戸から湧き出る水は昔から「薬水」と呼ばれていて、この薬水を飲めばいろいろな病気が治ると言われているそうです。
大神神社には多くの社があり、毎回全てにお参りしていましたが、あるとき狭井神社の鳥居から振り返り本殿を見ると、お屋根の傷みがとても,気になりました。なので、翌日いつもよりちょっと多めに寄進しました。(その年は、山の辺の道を制覇しようと2日間続けて行きましたので)
だからなのか、狭井神社の「本殿拝殿御屋根葺き替え工事竣工式」に参列さていただけました。
ですから、「狭井神社の御神水に天真名井の水が注がれた」とあったので、ちょっとビックリしました。
余談ですが、「菰野(こもの)」の由来は昔、マコモが生い茂る原野が広がっていたということだそうです。
マコモといえば、全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮のご神体は、宇佐神宮の祖宮といわれる薦神社の三角池の薦で編んだ枕 です。宇佐神宮は和気清麻呂公が神託の真偽を確かめに宇佐神宮に行き国難を救ったあの宇佐神宮です。
「岡本天明伝」を読んだ感想は、
日月神事にあるよう、心と体を磨き、言葉と心と行いを一緒にするよう日々生きていくことが大事であって、「いつ起こる」とかそういうことに固執しないようにすることかなっと思いました。
では。」
シントーアート
「昭和34年11月12月、二度にわたりニューヨークのコロンビア大学で天明展は開かれ、ニューヨークタイムズ紙が「シントーアート」として紹介した岡本天明 のクレパス画 署 俳画 の画集DVDです。
クレパス画
とても美しい作品ばかりです。だから日本各地での個展も大成功し、NYでも紹介されたのかと思っていました。
「岡本天明伝」を読む前は、元新聞記者とは知っていましたが、ほんの短い期間のことだったのかと思っていて、岡本天明は芸術家 という認識だったので、かなりビックリしました。
ぜひ本物を観たいです。「岡本天明展」ないかな?
追記)
シントーアートとして脚光を浴びるまでの経緯を、かいつまんであげてみますね。
・昭和34年 病床のつれづれに、三典夫人に12色のクレヨンを買ってこさせクレヨン画を描き始める。
・クレヨン画があまりに美しいので24色のクレパスに買い換え、さらに描き続ける。
・三典夫人が「(クレヨン画が)あまりにきれいだから、東京に行って皆に見せてきます」と上京。
・女子美大時代の同級生 三木睦子(三木武夫元首相妻)に見せ、展覧会をするよう薦める。(三木宅に一週間逗留)
中央の評論家達の賛同を得、個展開催へ
・義兄 熊谷宣夫→美術評論家 河北倫明
・福澤一郎から多方面の援助を受ける
・サクラクレパスが後援
・昭和34年7月7日 東京・京橋中央公論社画廊で「第一回クレパス画展」開催
・中西旭や藤沢親雄の活躍で、天明の作品は海外でも展示された。
・中西旭は日本神道の紹介に渡米した11月と12月に、ニューヨークのコロンビア大学とバーナードホールで天明の展覧会を開き「ニューヨークタイムズ」に紹介記事が掲載された
・藤沢親雄の仲介で、イスラエルのテルアビブ美術館からも購入の打診が届き、二枚の天明の画が「シントーアート」として展示された。
この時の海外展示会の記念に、テルアビブ美術館に天明の画二点が寄贈され、テルアビブ美術館からは、返礼にイスラエル国宝画帳12点が天明宛に送られた。
・昭和35年 伊藤等→星島二郎→松田竹千代→伊東深水を紹介され、伊東画伯の口利きで日展会場に天明の「三貴神像」が展示された
」
2017.7.2 え?鳩森八幡神社?
「将棋ファンが多く訪れる東京・千駄ヶ谷の鳩森八幡神社の”王手守”…藤井四段も…」ん? TVを聞き流していたら「鳩森八幡神社」の名が。ひょんなところで知っている名前が出るとちょっとビックリします。^^
鳩森八幡神社といえば、あの岡本天明氏が戦時中に留守神主をしておられた神社です。
「岡本天明伝」によると、留守神主となった経緯は、
・代々木八幡神社の近くに住んでいた天明は、代々木八幡の平岩満雄宮司と懇意だった。
・その満雄宮司は鳩森八幡の矢島家の長男として生まれた。(旗本から神職になった家系)
・先代の宮司が亡くなった時、平岩氏は十四歳だった為、姉が養子を迎え矢島家を継ぐ。
・満雄氏は代々木八幡の平岩家へ養子に入る。
・戦争が始まり、鳩森八幡には諸事情で男手がいなくなったので、神職の心得のある天明に白羽の矢が立った。
そうです。
鳩森八幡宮の富士塚は、最古の富士塚 だそうですね。ちゃんと浅間神社、富士塚の頂上には、木花咲耶姫が祀られている奥宮もあるそうです。浅間神社のご朱印もいただけるそうですね。
因みに、
「天明が初めに祀った富士山は、鳩森八幡神社の富士塚(一の宮)で、自ら富士塚を造ったのは昭和20(1945)年6月の玉川学園の「奥山」に造った富士塚だ。」だそうです。
なにはともあれ、鳩森八幡神社もなにか不思議な力があるようですね。龍脈が通っているとか?
行ってみたいけど、残念ながらしばらく東京に行く予定はないです。
追記)
「岡本天明伝」をもう一度ササッと読んで、一部をまとめてみました。
・岡本天明氏は、毎日のように噴出(自動書記)する「ふで(神示)」が、漢数字ばかりで読めないので、鳩森八幡の社務所に放置していた。
・同僚の鳩森八幡の禰宜・法元氏が「ふで」を気に入り奇麗に筆写して三方に納めて保存していたので、当初の神示が散逸しなかった。。ただし、「上つ巻」は原本が紛失したが、法元氏が写本を作っていたので今に伝わっている。
・天明氏が奉職していた鳩森八幡には江戸時代の富士講が造った富士塚があった。富士塚から「御土米」が出ると神示があったので、半信半疑で天明が富士塚を探してみると、本当に御土米が出た。
※御土米とは、米の形をした粘土質の土塊で、古来、大和三山の畝傍山で取れる霊物だそうです。
・神示に出てくる「お山」とは富士山を模した鳩森八幡神社の富士塚を指す。(一ノ宮)
とこんな感じです。
今、注目を浴びてきた「鳩森八幡神社」が、日月神示で重要な場所の一つというのも興味深いです。
やっぱり行きたいなぁ。年内に行きたいなぁ~。