ひふみ神示 上つ巻 第二十帖

ひふみ神示より

 

「上つ巻 第二十帖

 神がこの世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者沢山あるが、神には人のいふ善も悪もないのぞ。よく心に考へて見よ、何もかも分かりて来るぞ。

 表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろうが、一枚の紙にも裏表、ちと誤れば分からんことになるぞ、神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、そこの道理分からずに理屈ばかり申してゐるが、理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。

 言挙げせぬ国とはその事ぞ、理屈は外国のやり方、神の神民言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、それが神の真の民ぞ。足許から鳥が立つぞ、十理(トリ)たちてあわてても何にもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引繰り返るぞ。

 上の者下に、落ちぶれた臣民上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明近づいたから、早う身魂のせんたくして呉れよ、加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。

        六月二十七日、ひつくのか三。            」

 

☆「神には人のいう善も悪も無い」ここも重要でしょうね。「神心になればハッキリわかる」とあります。なんとなくそうだろうなとは感じてきましたが、ハッキリわかるところまではまだまだです。

 

☆「理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。 言挙げせぬ国とはその事ぞ」

 柿本人麻呂の歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」とあります。理屈は外国のやり方。日本人は言挙げせずに「惟神の道(かんながらのみち、神と共にあるの意)」が良いのでしょうね。

 

こちらのブログを作るときに、名前を考えていなくてとっさに思いついたのが kannagaratamatihaemase かんながらたまちはえませ(惟神霊幸倍坐世) 

です。古神道では、神様に手を合わせるときに、惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはえませ)と2回以上唱えるそうです。

 この言葉を初めて知ったのはかなり昔で、ヒーラーの方から教えてもらいました。今の祝詞から削除されている言葉があるとも言われていたのですが、それがかんながらたまちはえませかどうかは記憶があやふやです。

意味は、全てを神様におまかせします 

その後も、色々なところで見聞きしました。 神様の御心のままに良い方に守りお導きくださいということですね。 

神様に手を合わせる時や邪悪な気配を感じたら2回唱えるといいようです。

☆今の世の中は上下が引っくり返っているから、神の臣民は下で苦労をしているけれど、まずは身魂を磨いておけ ということでしょうね。

 

では。