ひふみ神示  下つ巻 第十一帖 第十二帖

ひふみ神示より

 

【  第十一帖

 けものさへ神のみ旨に息せるを神を罵る民のさわなる。

草木さへ神の心に従ってゐるではないか、神のむねにそれぞれ生きてゐるでないか、

あの姿に早う返りて呉れよ、青人草と申すのは草木の心の民のことぞ。

 道は自分で歩めよ、

 御用は自分でつとめよ、

人がさして呉れるのでないぞ、自分で御用するのぞ、

道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。

      七月の十八日、ひつくのか三。

 

 

  第十二帖

 この神は日本人のみの神でないぞ。

自分で岩戸開いて居れば、どんな世になりても楽にゆける様に神がしてあるのに、

臣民といふのは慾が深いから、自分で岩戸しめて、それでお陰ないと申してゐるが困ったものぞ。

 早う気づかんと気の毒出来るぞ。

初めの役員十柱集めるぞ。早うこの神示写して置いて呉れよ、神急けるぞ。

    七月の十八日、ひつ九の”〇の中にゝ”。

ひふみ神示 下つ巻 第七帖 第八帖 第九帖 第十帖

ひふみ神示より

【 第七帖

 この神示(ふで)読んでうれしかったら、人に知らせてやれよ、しかし無理には引張って呉れるなよ。

この神は信者集めて喜ぶような神でないぞ、世界中の民みな信者ぞ、それで教会のやうなことするなと申すのぞ、世界中大洗濯する神ざから、小さいこと思うてゐると見当とれんことになるぞ。

 一二三祝詞(ひふみのりと)するときは、神の息に合はして宣(の)れよ、

神の息に合はすのは三五七・三五七に切って宣れよ。

しまひだけ節(ふし)長くよめよ、

それを三たびよみて宣りあげよ。

天津祝詞の神ともこの方申すぞ。

   七月十九日、一二”〇の中にゝ” 

 

  第八帖

 この神示(ふで)皆に読みきかして呉れよ。

一人も臣民居らぬ時でも声出して読んで呉れよ、

まごころの声で読んで呉れよ、

臣民ばかりに聞かすのでないぞ、

神々さまにも聞かすのざから、その積もりで力ある誠の声で読んで呉れよ。

    七月十七日、ひつ九のか三。

 

 

  第九帖

 今度の戦は”〇の中にゝ” と〇との大戦ぞ。

神様にも分からん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、下(しも)の神々さまにも分からんぞ。

 何が何だか誰れも分からんやうになりて、どちらも丸潰れと云ふ所になりた折、大神のみことによりておの方らが神徳出して、九分九厘という所で、神の力が何んなにえらいものかと云ふこと知らして、悪のかみも改心せなならんやうに仕組てあるから、神の国は神の力で世界の親国になるのぞ。

 ”〇の中にゝ”と〇とは心の中に「ゝ」があるか「ゝ」がないかの違ひであるぞ。

この方は三四五(みよいづ)の神とも現われるぞ。

 江戸の御社(みやしろ)は誰でも気楽に来て拝める様に置いて呉れよ、

この方の神示(ふで)書く役員、神示うつす役員、神示説いてきかす役員要るぞ、

役員は人の後ろについて便所を掃除するだけの心得ないとつとまらんぞ、

役員づらしたら直ぐ替身魂使ふぞ。

    七月の十七日、一二のか三。

 

 

   第十帖

  八月の十日には江戸に祭りて呉れよ。

アイウは縦ぞ、アヤワは横ぞ、縦横揃うて十となるぞ、

十は火と水ぞ、縦横結びて力出るぞ。

 何も心配ないからドシドシと神の申す通りに御用すすめて呉れよ。

臣民は静かに、神は烈しきときの世近づいたぞ。

    七月の十七日、一二”〇の中にゝ”

ひふみ神示 下つ巻 第五帖 第六帖

ひふみ神示より

【 第五帖

 江戸に神と人との集まる宮建てよ、建てると申しても家は型でよいぞ、仮りのものざから、人の住んでゐる家でよいぞ、”〇の中にゝ”の石まつりて、神人祭りて暮れよ。それが出来たら、そこでお告げ書かすぞ。

 淋しくなった人は集まりてその神示(ふで)見てよ、神示見れば誰でも蘇るぞ。

この神示うつす役要るぞ、この神事印刷してはならんぞ。

 神の民の言葉は神たたえるものと思へ、てんし様たたえるものと思へ、人ほめるものと思へ、それで言霊幸(さき)はふぞ、それが臣民の言葉ぞ。

 わるき言葉は言ってはならんぞ。言葉はよき事のために神が与へてゐるのざから忘れん様にな。

  七月の十五日、ひつくのかみのふで。  

 

 

  下つ巻 第六帖

 今までの神事縁ある臣民に早う示して呉れよ、神神さま臣民まつろひて言答(いわと)開くもと出来るがら、早う知らせて呉れよ、誰でも見て読める様に写して神前に置いて、誰でも読めるやうにして置いて呉れよ役員よく考へて、見せるとき間違へぬ様にして呉れよ、

   七月十五日、ひつくのか三神示。】

ひふみ神示 下つ巻 第三帖、第四帖

ひふみ神示より

【 第三帖

 この神の真の姿見せてやる積もりでありたが、人に見せると、びっくりして気を失ふもしれんから、石にほらせてみせておいたのにまだ気づかんから木の型をやったであろうがな、それが神の或る活動の時の姿であるぞ、神の見せ物にしてはならんぞ、お山の骨もその通りぞよ、これまで見せてもまだ分らんか、何もかも神がさしてあるのぞ。

 心配いらんから慾出さずに、素直に御用きいて下されよ、今度のお山開きまこと結構であるぞ神が烈しくなると、神の話より出来んことになるぞ、神の話結構ぞ。

   七月の十三日、ひつ九のかみ。

 

  第四帖

 早く皆のものに知らして呉れよ、神急けるぞ。

お山の宮も五十九の岩で作らせておいたのに、まだ気が附かんか、それを見ても神が使ってさして居ること、よく分かるであろうが、それで素直に神の申すこと聞いて呉れて我(が)を出すと申しててゐるのぞ、何事も神にまかせて取り越し苦労するなよ、我が無くてもならず、我があってもならず、今度の御用なかなか六ヶ敷いぞ。

 五十九の石の宮出来たから五十九のイシ身魂いよいよ神が引き寄せるから、しつかりして居りて下されよ、今度の五十九の身魂は御苦労の身魂ぞ。

人のようせん辛抱さして、生き変り死に変り修行さして置いた昔からの因縁の身魂ざから、みごと御用つとめ上げて呉れよ。

 教会作るでないぞ、信者作るでないぞ、無理に引張るでないぞ。

この仕組知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、世の元からの仕組ざから、いよいよ岩戸開く時来たぞ。

   七月の十三日、ひつくのか三。】

 

  追々出てきますが、

ひふみ神示、ひふみ新世紀(太神の布告)、岡本天明伝 によりますと、

宇宙が始まってから6度の大立替えがあり、今度は7度目の大立替えだそうで、「みろくの世」といわれるユートピアが到来すると言われています。

 岩戸は五度閉められているそうです。詳しくはまた。

 

ひふみ神示 下つ巻 第二帖

ひふみ神示より

【 第二帖

 今度岩戸開く御用は、人の五倍も十倍も働く人でないとつとまらんぞ。

岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、大工は大工の岩戸、左官左官の岩戸と、それぞての岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ。

 慾が出るとわからんことに、盲になるから、神、気つけるぞ、

神の御用と申して自分の仕事休むやうな心では神の御用にならんぞ、どんな苦しい仕事でも今の仕事十人分もして下されよ。

 神は見通しざから、つぎつぎによき様にしてやるから、慾出さず、素直に今の仕事致して居りて呉れよ、その上で神の御用して呉れよ。

 役員と申しても、それで食ふたり飲んだり暮らしてはならん、それぞれに臣民としての役目あるぞ、役員づらしたら、その日から代わりの身魂(もの)出すぞ、鼻ポキンと折れるぞ、神で食うて行くことならんから、呉れ呉れも気をつけて置くぞ。

  七月の三日 ひつ九のか三。 みなの者御苦労であったぞ。】

ひふみ神示 下つ巻 第一帖

ひふみ神示より

【 第一帖

 富士は晴れたり日本晴れ。青垣山めぐれる下つ岩根に祀り呉れた、御苦労ぞ、いよいよ神も嬉しいぞ。

鳥居はいらぬぞ、鳥居とは水のことぞ、海の水あるそれ鳥居ぞ。

皆の者御苦労ぞ。蛇が岳は昔から神が隠してをりた大切の山ざから、人の登らぬようにして、龍神となりて護りて呉れた神々様にもお礼申すぞ。

 富士は晴れたり日本晴れ。いよいよ次の仕組にかかるから、早よう次の御用きいて呉れよ、神急けるぞ、山晴れ、地(くに)晴れ、海晴れて、始めて天(てん)晴れるぞ。

天晴れて神の働きいよいよ烈しくなりたら、臣民いよいよ分からなくなるから、早う神心(かみこころ)になりて下されよ。つぎつぎに書かしておくから、よく心に留めておいて下されよ。

 この道(おしへ)は宗教(をしえ)ではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ。

 道とは臣民に神が満ちることぞ、神の国の中に神がみちみつることぞ。

金儲けさせんぞ、欲すてて下されよ。

   七月十二日の神示(ふで)、ひつくのか三。    】

 

岡本天明伝によりますと、

蛇が岳は、群馬県榛名山”榛名富士の艮(うしとら)の方角にあたる外輪山の蛇ヶ岳”のことのようです。

 

・「上つ巻 第二十一帖」の中山

「榛名は中山」富士山から三十里の距離にあたる場所として、群馬県榛名山(榛名富士の艮(うしとら)の方角にあたる外輪山の蛇ヶ岳)に天之日津久神を祀った(七月十日~十一日)

榛名神社 江戸時代までは国常立尊イザナギ尊、イザナミの尊などが祭神だった

  ※代々木神社には雨乞いの神として勧請された榛名宮が境内社として鎮座していた

奥山 中山 一の宮 は、時期によって場所が変わっているようです。

 

 ※神示は八通りに読める (解釈)出来るそうです。また、その人の身魂の掃除洗濯が磨けた具合でも違うようです。

「悲しみは、聴いてくれる人がいて初めて悲しめる」

 先日、ある先生の講演に行きました。今までブログに一度も書いていない系統の講習会です。(7~8年前から年に1~2回はその先生のお話を聞く機会があります。)

 

 「悲しみは、聴いてくれる人がいて初めて悲しめる」

という言葉が印象に残りました。

 

 

 昨今、ニュース等をみるにつけ思うところがあったので、色々な方から伺ったことを少し書こうと思います。

 「死にたい」と言った少女達を次々に手にかけた犯人は「少女は死にたかったわけじゃなかった」という事を言っているとか。

「死にたい」は「死にたいほど辛い。苦しい」という気持ちをわかって欲しかったのでしょうか。

 息は吐いてから吸います。

 誰かに辛さ、苦しみを語る(吐く)と、スキマが出来て、(吸う)ことが出来るようになるのかもしれません。

「答えは、自分の中にある」そうです。語ることで自分が今出来そうな事に気づくのかもしれません。

 もし、言えない。身近な人に言いたくない、言っても理解してもらえないと思っているのなら、

「自分の価値感を横に置いて」聴く訓練を受けている専門家や、そう出来るよう努力している方々に話す ということもいいのではないでしょうか。

 

では。